2017年09月03日

「心が晴れる 楽しいこと」 第9回『人の話を聴く会』を終えて

その日の会はブルース・リーのモノマネから始まった。
彼はテンションを上げるために家でヴィデオを観て来たと言う。
格闘シーンの凄さ、相手にトドメを刺す時のリーの表情、その悲しみ。
彼は椅子から立ち上がってポーズをとり(靴まで脱いだ)、それらを情感たっぷりに演じ、語る。
それから、いかに自分が何かに熱中して生きて来たかを語り出す。

何かに熱中する事は、彼にとっては生きる原動力であり、人や物と出会うきっかけであり、自分という人間を知るきっかけでもある。
たとえその熱が(急速に)冷めたとしても、熱中したという事実とその中で経験した数々の出来事が、彼を“ちょっと他にいない”魅力的な人間にしている。
彼は熱中し、冷め、また熱中する。

彼が今熱中しているのはパントマイム。
それは“心の動きを体で表現する”というもの。
そのためにはもちろん心が動かなくてはいけない。
喜怒哀楽をしっかりと感じなくてはいけない。
彼の心は常に動いているような気がする。

もう一つ熱中していることは、子供達に何かを伝えること。
パントマイムを通じて、とても大切な何かを伝えること。
“想像する心、人を思いやる心、自分は自分のままでいいんだと思える心”
それを言葉でではなく、体を動かすこと(マイム)で伝えていく。
体を動かすことで、心も動かそうとする。
彼は常にクネクネと体を動かしています。

心が動くと、体も動く。
体が動くと、心も動く。
彼を見ていると、その事がすんなりと理解できる。

彼は分かり易い人間です。(「僕のヒーローは、ロボコップとシュワちゃんとブルース・リー!」)
彼は臆面も無く自分のことを語れる人間です。(「一番好きな映画はロボコップで、次がロボコップ2!」)
彼は常に“気持ち”が先で、“理屈”は後からついて来る人間です。(ついて来ないこともある)
彼は熱中するあまり度を超え、夢と現実の境目があやふやになる人間です。(「ジュラシックパークは1億回観た!」)

そして彼は、人々を魅了する事の出来るパフォーマーであり(当日披露して貰ったパントマイムは素晴らしかった)、「子供達の未来を守りたいんです!」と真面目に語る、熱い想いの持ち主でもあります。

そんな“金子しんぺい”という人間を見ていると、知らず知らず自分の心が動いていることに気がつきます。(たまに体も)
そしてそれは“ちょっとしたこと”だと僕には思えるのです。

ブルース・リーから始まったその日の会は、“心が晴れる 楽しい時間”でありました。
(皆さんはどうでしたか?)

金子さん、ご来場の皆さん、どうもありがとうございました。店主

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金子さんです。雰囲気ありますね。ちょうど夢と現実の境目を飛び越えている最中です。
posted by トムネコゴ at 08:29| 東京 ☀| Comment(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

「師と弟子」 第8回『人の話を聴く会』を終えて

恋愛としてではなく、“人が人に惚れ込む”というのは、一体どういう事なんだろうか。

落語家の立川談志は、歌って踊れる映画俳優(古いね)フレッド・アステアが、もし自分の目の前でチーク・トゥ・チークを歌ってくれたら「オレは(自分の)弟子の弟子になってもいい」と、人に惚れ込むとはどう言うことかの“喩え”として、そう語っていました。
その談志の弟子である志らくは、自分が惚れた師匠の好きなものは悉く自分も好きになった、と言っています。

今回のゲスト 家庭料理家・本田明子の師は、料理研究家の小林カツ代(2014年1月没)。
それは10代の頃の本田さんにとっては、履歴書の“尊敬する人”の欄に書くほどの存在。
そのカツ代さんのもとへ(幾度か断られた末に)弟子入りしたのは、本田さん20歳の頃。
しかも、それはただの弟子ではなく、小林家の中にまで入り込む“内弟子”と言うもの。
カツ代さんの家族と一緒に朝晩のご飯を食べ、家事を手伝い、泊まる日もしばしば。
そんな内弟子時代が、結婚をする年(29歳)まで続きます。

「(その頃は)寝てる時以外はずっと先生を見てましたね」
「ずっと見てた?」
「うん、そう」

それは料理家と言う枠を超えて、小林カツ代という人間を見ていた、と言うことではないでしょうか。

「カツ代さんは具体的にどんなことを教えてくれたんですか?」
「具体的になんて教えない。こっちが勝手に見て覚える」
「こういう風にすれば出来る、と言うような説明もない?」
「ないない。そういうのは言葉に出来ない。失敗して、あとは自分で考える」

カツ代さんは弟子に、“教えてからやらせる”のではなく、“とりあえずやらせた”そうです。
その結果、弟子は多くの失敗を経験することになり、うまくいけば、そこから何かを学び、考える機会が生まれる。(カツ代さんがそれを意図していたのかは分かりません)
それとこれは私見ですが、カツ代さんには弟子の失敗を楽しむ余裕があったのではないか。
もちろん性格が悪いと言っているのではなく(蛇足)、そこから新たな料理の発想が生まれるかもしれない、そのきっかけとして。
「あら、あなた面白い料理するわねぇ(ニコニコ)」、みたいに。

本田さんは結婚をして子供も生まれ、そのうち40(歳)を過ぎても、独立せずにずっとカツ代さんのもとにいました。(結局カツ代さんが元気なうちは独立しなかった)

「どうして独立しなかったんですか?」
「一緒にいて面白いのよ。目が離せない人なの、カツ代ちゃんて」
「カツ代ちゃん?」

先生、カツ代ちゃん、カッちゃん。
本田さんは色々な呼び方で、嬉しそうに師の事を語ります。
そこには愛情と親しみが込められ(もちろん敬意も)、そして何よりも、“この人が好き”という想いが込められていました。

「自分の夫より好き。母よりも好き」
「‥‥(絶句)」
(どうか本田さんの親族の方が、このブログを読んで心を傷めませんように)

僕は本田さんの話を聴いて、素直に、こんな弟子を持つ師は幸せ者だな、と思いました。
そしてカツ代さんの様な人を師に持つその弟子もまた、幸せ者だな、と思いました。
この様な関係性は、“尊い”、のではないでしょうか。

本田さんはある本に、「師匠孝行したい時に、師匠はいない」と書いていますが、この日の本田さんの話を聴く限り、その想いだけで、十分孝行していたのではないだろうか。
そんな事も、思いました。


本田さん、ご来場のみなさん、良い時間をありがとうございました。店主

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※カツ代さんです。
「アコちゃん(本田さんのこと)、ちゃんと喋れた?」
「はい。ほとんど一人で喋ってました」
「ケケケ」
posted by トムネコゴ at 20:03| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

「権頭さんのことを考える」 第7回『人の話を聴く会』を終えて

前回『魅惑の宇宙防衛隊』という記事を書きました。
その時、僕はその記事を書き進めていくうちに、ふと権頭さんのことを考えました。
第7回『人の話を聴く会』のゲスト、音楽家の権頭真由さん。
どうして彼女のことを考えたのか、そのことを考えてみたい。
(考えた事について考える。回りくどいですね)


権頭さんは、「朝ご飯を食べるように音楽をする」と言います。
それは特別な事としてではなく、生活の一部として、音楽をすること。
幼少の頃より身近に在り続けている音楽に、素直に取り組むこと。
そこには“ジャンル”や“方向性”や“オリジナル”への悩みは、おそらくほとんど無い。
それよりも、身内に湧き起こる音楽に耳を傾け、それを表に出すこと。
自分の感じたことを、何とか音楽や言葉に移し替えること。
彼女にとってはその方が自然であり、より大切なことである。

権頭さんは、「散歩が大好き」と言います。
これもやはり特別な事ではなく、日常の一部として、散歩をする。
当ても無く外を歩き、その時間の中で様々な物事と出会う。
聴こえてくる音や匂い、見るものや感じるもの、手触り。
それらを、心のどこかに留め置いて、そうして、また歩く。
そんな“留め置かれたもの達”が、彼女を形成し、彼女の魅力となる。
その仕草や言葉や表情となって、表に出る。
まるでコップの縁から水が溢れ出る様に、自然と外にこぼれ出てくる。

それは「魅惑」かもしれないな、と思います。
あの少年達(防衛隊)の様に、彼女もこの世界から様々な「魅惑」を見つけ出し、それを別の形(音楽や言葉や彼女自身)に変えて、僕達の前に差し出しているのかもしれない。
「ねえ知ってる?この世界にはこんな美しいものがあるんだよ」、と。

お気に入りのワンピースを着て、膝を揃え、イスにちょこんと座る。
細く小さな体で、重く大きなアコーディオンを弾く。
その歌声は、消え入りそうに、陽炎の様に儚い。
その表情は、穏やかに、遠くの何かを見つめる。
それはまるで、“何かに心を奪われている人”の様に見える。
この世界(宇宙)に「魅惑」され、「眩惑」された人の様に。

「音楽を通して世界と対話し、あらゆる美しさに花を添える」 権頭真由


権頭さんは、今日もどこかで様々な「魅惑」を見つけているのだろうか。
そしてセミ捕りとバケツ(ピアノとアコーディオン)を手に、“泥だらけになりながらも”、この「魅惑の宇宙」に花を添えているのだろうか。
もしそうだとしたら、それは素敵なことですよね。

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※先日登った高尾の山の中です。そこにはどれだけの「魅惑」があったのだろうか。
空気も澄んで、静かに「森の音」が聴こえ、山の鳥達が“すー”と頭上を横切る。そんな、何とも清々しい登山でした。(あの“子供だらけ”に遭遇するまでは)
posted by トムネコゴ at 09:12| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

「なんか違う」 第6回『人の話を聴く会』を終えて

最近久しぶりに映画館で映画を観ました(下高井戸シネマ)。
シーモア・バーンスタインという老ピアノ教師のドキュメンタリーです。
示唆に富み、観賞後心がスッとする、気持ちの良い映画でした。

その中にシーモアさんのこういう言葉が出てきます。
「答えは(外ではなく)自分の中にある」

今回のゲスト 音楽家の菅間一徳さんは、音楽と出会ってから、その「自分の中にあるはずの答え」を、時間をかけ 苦しみながらも追い求めます。
他と比べては「なんか違う、なんか違う」と自問し、何とか自分の居場所を見つけようとします。
それは孤独で頼り無い日々。
闇の中を、独り手探りしながら進むような日々。
そして自分の心に素直になるほど、その闇は深くなっていくように思える、そんな日々。

10歳でサイモン&ガーファンクルの音楽と出会い、そのポール・サイモンの弾くギターのアルペジオの音色に魅せられ、自らもアコースティック・ギターを弾き始める。
そこから様々なジャンルの音楽を経験し、少なくないミュージシャンと知り合うも、“何処にも自分の居場所を見つける事が出来ない”。
そこには常に「なんか違う」という思いが残る。

「ぼくはただ“音楽”がやりたかった。」
「でもぼくのやりたい“音楽”には“ジャンル”が無い。」

菅間さんは独特の“菅間節”(残念ですが紙上再現出来ません。)で、一つ一つ確認するように語っていきます。
間を取り、考え、「うん」とうなづき、話す。
それはとても静かに、でもしっかりと語られます。

「ぼくの音楽は何処にも居場所が無い。」
「それは音楽とすら呼べないのかもしれない。」
そんな思いを抱いた年月が、いくつもいくつも過ぎて行く。

(その年月の中で、菅間青年は何を思い、どんな事を感じていたのだろう?何を得て、何を失ったのだろう?僕は今、菅間さんの『時の詩』という曲を聴きながら、そんな事を考えています。)

ドイツ人ピアニスト ヘニング・シュミートの音楽と出会ったのは今から3年ほど前。
菅間さんはそこで初めて「自分のやっている事が音楽と呼んでいい」ことに気づきます。
30歳目前。ギターを弾き始めてから、20年近い歳月が経とうとしていました。

それは、あの“闇”を、ヘニング・シュミートという“光”が照らし、そこ(自分の中)にしっかりと“答えがある事を気づかせた”、そんな瞬間だったのかもしれません。
あるいは、その“答え”に優しく手を置いて、「それでいいんだよ」と声をかけられた、そんな瞬間。

「それで、もうあの“なんか違う”は思わなくなりました?」
「(何度かうなづいて)うん。今は、穏やかに、演奏、してます。」(ちょっと“菅間節”)
どこか晴れやかに、菅間さんはそう答えました。


こんな言葉があります。
「良きことは、小さな声で語られる」

僕は菅間さんと話すと、よくこの言葉を思い出します。
そしてその菅間さんの音楽を聴くと、“何かを思い出しそうに”なります。
おそらくは、“忘れてはならない、大切な何か”を。

菅間さん、ご来場のみなさん、良き時間をありがとうございました。店主

第7回(4月23日)のゲストは、菅間さんと共に『Waterside』という作品を作った 権頭真由(音楽家)さんです。どんな話が聴けるのか、今から楽しみ。
ご予約はthomnecogo@gmail.comか080ー6502ー0406まで。

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※朝の光を浴びて、玉川上水沿いを三鷹からトムネコゴに向かいます。この約30分の“気持ちの良い通勤路”では、考えをまとめたり(進めたり)、ふとアイデアを思い付いたり、僕にとって(ほぼ)毎朝の大切な時間となっています。そして光(日)の大切さを痛感します。
「まず初めに光ありき」(聖書の言葉でしたっけ?)
「光在る処に猫は寝る」(まさか聖書には載ってないですね)
posted by トムネコゴ at 09:09| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

「音楽をやってから死にたかった」 第5回『人の話を聴く会』を終えて

去る2月26日に第5回『人の話を聴く会』がありました。
ゲストは指揮者の佐藤俊太郎さん。
その時の事をちょっと書いてみます。

佐藤さんは率直に、これまでの事や音楽の事等を語っていました。
その声には熱があり、言葉には真実味があります。
僕らは安心して、その話を聴き続ける事が出来ました。
まるで一人一人がオーケストラのメンバーとなって、指揮者 佐藤俊太郎を注視し、あの「熱のある声」で語られるその「物語」にじっと耳を傾ける。
そんな光景が、そこにはありました。
そして、それは心温まる光景でもありました。

佐藤さんの「物語」には一貫して音楽が流れています。
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン…彼ら偉人達の創り出す音楽に幼少の頃より親しみ、それは現在に至るまで常に身近であり続けている。
その音楽は、佐藤さんを捉えて離さず、佐藤さんもまた、その音楽を捉えて離さない。

もちろんそれは、良い事や楽しい事ばかりではなく、音楽がある事によっての苦しみや悲しみ、そして痛み、それらもしっかりと存在します。
そして、それすらも、音楽と共に乗り越えていく。

佐藤さんは19歳の一時期、幾つかの不運と不幸が重なった結果、それまでに経験した事の無い「大きな悲しみ」の中で日々を過ごす事になります。
それは、あまりにも辛く、暗い日々。
空一面を黒い雨雲が覆い、太陽はその背後に隠されて、どこを探してもシルヴァー・ライニング(銀色の縁)を見つける事が出来ない、そんな、鬱々とした日々。

そんな中で出会ったのが、ブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニーによる“モーツァルトのト短調シンフォニー”。
それはワルターとウィーンフィルが本当に久しぶりに組んだ、正しく待望のライヴ演奏で、そこにはウィーン市民の温かい拍手があり(ウェルカム・バック!)、音楽を愛する心があり、モーツァルトの悲痛な旋律があります。

友人に(強く)そのレコードを薦められた佐藤青年は、薦められるままにその音楽を聴き、こう思います。
「僕はこんな演奏がしたい。僕は音楽をやってから死にたい。」
そう、どう探しても見つける事が出来なかったあのシルヴァー・ライニング(銀色の縁)が、ようやく、その光をみせたのです。
それはまだ、微かな光かもしれない。
でも、光がないと、サニー・サイド(明るい面)を見つける事も出来ない。


佐藤さんはこの「物語」を話をしながら、あの19歳の「悲しみ」の大きさを、言葉では無く、ある「仕草」で表しました。
両腕を左右いっぱいに広げて、「このくらい、悲しかった」、と。
僕はその「仕草」を、あの「悲しみ」と共に、ずっと忘れないだろうと思います。
そこには、言葉以上に伝わる何かが有りました。
それは理屈を超えて、見ている者の胸に突き刺さり、そこに、静かに、留まり続ける。
そんな「仕草」であり、「悲しみ」であった。
そう思います。

「『人の話を聴く会』っていい会だなぁ」と、手前味噌で、他人事の様に、改めて思いました。
佐藤さん、ご来場の皆さん、どうも有難うございました。店主
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※光あるところには猫がいます。猫あるところには、、、やっぱり猫がいます。
posted by トムネコゴ at 14:11| 東京 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

「体で反応する」第4回人の話を聴く会を終えて

ちょっと前に、とあるジャズコンサートに行って来ました。
メンバーは30代が中心の黒人ばかりのクインテット(5人組)で、50〜60年代のハードバップを基本に、それを現代の感性と高度なテクニックで演奏する、と言うと簡単ですがまあそんな感じです。

強力なベースライン(ミンガス!)、融通無碍に叩きまくるドラマー、あくまで冷静に和音を積み重ねていくピアニスト。
アルトとテナーの2管がテーマを吹き、はじけるような演奏が始まります。

いや〜凄かったです。興奮しました。
音楽が生きてその辺を飛び回っている感じ、とでも言いますか。
実際じっとして居られなくて、そわそわしては何度も腰を浮かし、脚を組み替え、声を上げて笑いさえしました。(変な癖です。周りに居た方々すいません)
僕はおそらく頭よりも体で反応したんだろうと思います。

12月17日に行われた話を聴く会で、ゲストの土井さんが言われた「子供達は面白い事があると体で反応する」や、「声に出して絵本を読むことは体にいい」「長(新太)さんのナンセンスは解る解らないじゃなく面白い」等々の言葉を聞いて、僕はあのジャズコンサートを思い出しました。
あくまで素直に体(心)で反応する、と言うことでしょうか。
しかし「解る解らないじゃなく面白い」は良い表現ですね。

土井さんからはその他にも、色々と興味深い話を聞くことができました。(個人的にとても気に入った話があるのですが、これを書くと、あるいは、どこかで角が立つといけないのでやむなく割愛します。残念)
その上最後に、何とも素敵な絵本の読み聞かせまで。
土井さんが子供達に対してするように、僕等(大人)に向けて絵本を読み聞かせていきます。
僕等はじっと話の続きを待つ。
そこにはワクワクがあり、期待がある。
笑いがあり、じっとして居られなさがある。
まさしく、童心に還ると言ったところ。

僕は思うんだけど、このような体験は世代間の、あるいは氏素性の壁なんて軽く飛び越えてしまえるところがある。
そして僕等は、そのような体験を通して、「壁」のこちら側と向こう側をより自由に行き来する事が出来るんじゃないか。
「やあ、70歳。」「やあ、17才。」
みたいに。

そんな事を思わせる素敵な会でした。

土井さん、ご来場のみなさん、ありがとうございました。店主
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*会終了後の誰もいない店内。
小津的寂しさがありますね。
posted by トムネコゴ at 21:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 『人の話を聴く会』を終えて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする