2017年06月24日

『straight,no chaser』

男は、扉を開けるとそのまま奥のカウンターへと向かい、丸いスツールに腰掛け、“足置き”に両足を乗せた。それから両腕をカウンターの上に置き、目線を、真向いの棚に置かれたウヰスキーの瓶に留める。トリス。沢山並んだ洋酒の中から、なぜか、その瓶が目に留まる。

「御注文は?」
「トリス」
「どの様にいたしましょう?」
「ストレイトで」

店内では古いジャズが流れ、ピアニストの長いソロが聴こえる。その不思議な響きとリズムを持つ音楽は、妙に男の神経に障ってくる。

「お待たせしました」
「このピアニストは誰ですか?」
「セロニアス・モンク」
「せろにあすもんく?」
「ええ。」
「不思議な名前ですね。そしてこの音楽も」
「これは彼のオリジナルです。“ストレイト、ノー・チェイサー”」
「ノー・チェイサー(水は要らない)?」
「そうです。正にお酒を注文する時の言葉を、そのままタイトルにしたようです」

“セロニアス・モンク”、“ストレイト、ノー・チェイサー”。どちらも聞いたことが無い。そもそも男にとっては、“ジャズそのもの”が聴いたことの無い音楽。

「すごく聴きづらいですね。ジャズってもっと聴き易い音楽だと思ってました」
「モンクは特別です」
「どう特別なんですか?」
「モンクの音楽の中には、美醜哀楽、全てがあります」

“美醜哀楽全てがある”
男は目の前のグラスを見つめ、しばらくそれについて考える。まだ、口はつけない。

「美醜も、哀楽も、それぞれが存在して初めて成立する関係だと思いますが」
「その通りです」
「だとしたら、それらが全てあると言うのは、そんなに特別な事とも思えないですが」
「おっしゃる通り。それだけだと、なにも特別なことはありません」
「でもモンクの音楽は違う?」
「ええ。モンクの音楽の場合は、それらがほとんど等価にあります」

“美醜哀楽が等価にある音楽”
男は首を振って考えることをやめ、グラスに口をつける。その滑らかな液体が喉を通り、胃の中に落ち着くのを待つ。それから改めて、棚にある『トリス』の瓶を見つめる。その“小さな男(アンクルトリス)”のイラストは、不思議と男の心を落ち着かせてくれる。それは彼が今最も求めているものだ。

“これまでの様な生き方をしてたらダメだ”
男は目を閉じ、そう思う。

目を閉じると、モンクの音楽が頭の中をぐるぐると回る。それは永久運動のように、始まりも終わりも無く鳴り続ける。美醜哀楽全てがある音楽。“そうかもしれない”、と男は思う。“俺にはその何かが欠けているのかもしれない”

気がつくと、アンクルトリスはすでに‘そこ’にいて、その音楽に合わせて踊り始めている。短い手足をばたつかせ、独り奇妙なダンスを踊っている。それはけして褒められたものではないけれど、何かが強く男に訴える。そこから目を離すことが出来ない。
男は、自分の身体が揺れていることに気づく。そして、自分が何処かへ運ばれて行くのを感じる。

目を開いて、もう一度その瓶を見つめる。アンクルトリスは気持ち良さそうに‘そこ’に納まっている。蝶ネクタイを締め、グラスを片手にニッコリとしている。男は少しだけ微笑み、それから、彼に向かってグラスを上げる。

「もう一杯ください」
「同じもので?」
「そう、ストレイト。ノー・チェイサーで」


おしまい。


今年2017年はモンク生誕100年。この文章を書き上げた後に、その事に気がつきました。
僕はモンクの音楽が大好きです。(皆さんはどうですか?)
この文章を書いている時は、頭の中でずっと彼の音楽が鳴っていました。(これを書き進める推進力となっていた気がします)
因みに、僕は普段お酒を一切飲まないので、アンクルトリス氏のお世話にはなっていません。
店主 平良

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「Jazz and Freedom go hand in hand」Thelonious Monk
posted by トムネコゴ at 09:14| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月30日

遠いワルツ

矢吹唯は、病院を出ると来た道とは逆の方向に歩き出した。意識してそうした訳ではなく、身体が勝手にその方向を選んだ。心臓は激しく脈打ち、その鼓動音は、分厚いコートを突き抜け、直に矢吹の耳に聴こえてくる。両手は固い拳となり、みぞおちの辺りに強く押しつけられている。やや前屈みとなって歩くその姿は、まるで、強い向かい風の中を進もうとしている人のように見える。でも実際には風なんてどこにも吹いてはいない。それは彼女の頭の中にだけ、強く、激しく、吹き荒れている。

様々な事情(不治の病、事故等)で、余命を宣告される人達が存在する事は、何となく知ってはいた。矢吹自身、これまでに何度か、“そのての話”を耳にしたことがある。そして、何故かひどく悲しい気持ちになった。(ある時には泣きさえした)どうしてかは分からない。それらは全て赤の他人の身に起こった出来事なのに、そんな理屈とは関係無く、憐れみや同情、それらの感情が自然と湧いてきた。そして気がつくと、両手を固く握り締め、それを“みぞおち”の辺りにギュッと押しつけていた。

今、自分がその“宣告”を受けて強く思うことは、「誰からも同情なんかされたくない」と言うこと。「優しい言葉や労わりの気遣いも要らない」 ただ、「独りになりたい」 。
矢吹は吹き荒れる嵐の中、方向感覚を失った人のように、闇雲に、冬の街を歩いた。

冬の街は、どこまで行ってもその表情を変えることは無い。
どこまで行っても、そこには常に生に対する厳しさがある。
暖炉の暖かさは一瞬でしかなく、それゆえに尊い。
私達に出来ることは、じっと耐えること。
そして、まだ来ぬ春を想うこと。

だんだんと息が上がり、身体に疲れを感じる。それでも矢吹はどうしても立ち止まりたくなかった。歩き続けていたかった。もし歩みを止めると、あの“宣告”に捕らえられるような気がしたのかもしれない。すぐ背後に、その“気配”を感じていたのかもしれない。まるでゲーテの『魔王』の中に出てくる少年が、すぐ背後に“それ”(死)が迫るのを感じたように。少年は怯え、父親にしがみつく。でも矢吹には、“しがみつけるものは何も無い”。
彼女は冬の街を歩き続ける。あの少年と父親を乗せた馬が、“それ”から逃れようと、暗い森の中を駆け続けたように。

死はいつか確実に生を捕える。
それは早いか遅いかの違いであり、何者もそれから逃れることは出来ない。
人間はそこでは無力であり、あの少年も、結局は暗い森を抜け出ることが出来なかった。
そこには死の冷たさがあり、死の執拗さがある。
私達に出来ることは、おそらく、何も無い。

どれだけ歩いたのか。気がつくと知らない場所に来ていた。辺りは暗くなり、寒さがいっそう厳しくなる。あの“嵐”はだいぶ弱まり、今ではそこに、奇妙な“静けさ”が入り込んでいる。矢吹は疲れた脚を止め、荒く白い息を吐き、頭を激しく左右に振った。手袋を取り、両手を擦り合わせ、それを両の頬にあてた。
「あたたかい」
それは血の温かさであり、親密さである。
彼女はしばし佇み、虚無を見つめる。

その“音楽”は、気がついた時にはすでに鳴っていたような気がする。少なくとも矢吹には、その始まりを思い出すことが出来ない。それは単音から和音となり、そこにリズムと旋律が生まれ、徐々にその音像が形を成していく。その“音楽”がどこからやってくるのか、矢吹には上手く検討を付けることが出来ない。それは何処か遠い場所(記憶)から静かに聴こえてくるように思える。
彼女は目を閉じ、じっと耳を澄ませる。意識を集中し、その“芯”を捉えようとする。

「ワルツだ」

そこで涙がこぼれる。とても自然に。それは夜にしか咲かない花の様に、誰にも気づかれない、密やかな涙。美しくも儚い、物悲しい涙。そして目を開けると、そこには白い微かなものが舞っている。空を見上げ、そこにはっきりと、夜空を背景に無数に舞う粉雪を見ることができる。彼女は手を伸ばす。それに触れ、その冷たさを感じる。口を開け、その冷たさを味わう。
そして再び目を閉じ、あの遠いワルツに耳を澄ませる。

「死が生を捉えたければ、勝手に捉えればいい」、彼女はふとそう思う。

粉雪は地表を白く覆い、あらゆるものに慈悲を与える。
生も死も、そこでは全てが等価となる。

ワルツは止まない。
それは遠い場所で、遠い記憶の中で、深く、静かに、鳴り続けている。


おしまい


※この物語は、第6回『人の話を聴く会』のゲスト菅間一徳さんの曲『you are my waltz 』を聴いて、そのミュージック・ビデオを観て、そこから感じた“何か”を元に自由に書きました。矢吹 唯は実在の人物ですが(MVにも出演してます)、本人との因果関係は全く有りません。もちろん、余命を宣告された事も、される予定も有りません。(ですよね、矢吹さん?) 僕としては、これを書かせた美しいワルツに感謝したい。(菅間さんありがとう) 皆さんはこの物語を読んで、どの様な感想を持たれるでしょうか。コメント等残されると嬉しく思います。平良

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※これは最近妻にプレゼントしたレコード。ブラームスのワルツ集です。素敵なジャケットですね。同じワルツでも菅間さんのそれとは全然違います。どう違うかと言うと…長くなりそうなので止めときます。すいません。良かったら聞き比べてみてください。
posted by トムネコゴ at 11:14| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする