2018年01月23日

ひどく難しいこと

「店主が、思い出させてくれた曲を、ちょっと、弾かせてください」
そう言って、菅間さんはその日の演奏会を始めました。

1月14日、日曜、午後7時、会場(トムネコゴ)は廊下にまで人が溢れています。
菅間さんはちょうど皆んなの中心に位置する場所で、ミシン椅子(sewing-chair)に腰掛け、ギターを弾いたり、合間にボソボソと何かを語ったりします。

「上手に弾けるかな…」

僕たち(観客)はその音楽にじっと耳を澄ませ、その言葉に静かに耳を傾ける。
それらはお互いを補い合い、補完し合う様に、その小さな演奏会を形作っている。
それはいかにも菅間さんらしい親密な音楽であり、言葉。
それは何かを思い出させる独特の音楽であり、言葉。
“忘れかけていたもの”や、“忘れてはいけないもの”。
おそらくは、そう言う種類の記憶たち。

「最近は、『いって おいで』と言う作品が、頭にあるので、その中から…」

時折通る電車や車の音に阻まれながらも、その音楽と言葉は不思議に胸に響く。
それは時間をかけ、ゆっくりと、僕たちの身体に浸透していく。
まるで雪が静かに降り積もるように。

演者は真摯に自分の音楽と言葉を語り、僕たちは真摯にそれを受け止める。
そこには親密な空間があり、お互いのやり取りがある。
日常とは違った世界があり、日常へと続く思いがある。
“その場にある何かが胸の奥を震わせるのが分かる”

「もう一つ、店主が思い出させてくれた曲を、弾かせて、ください」
そう言って、菅間さんはその日の演奏会を続けました。

Sugama Kazunori solo vol.12 『winter』より


いつも思う事ですが、菅間さんの音楽を言葉で表すのはひどく難しい。
そして、この季節毎の小さな演奏会の雰囲気を伝えるのもまた、難しい。
僕は、まだ参加した事がない人の為に、いつかその気を起こさせる文章が書ければいいな、と思っています。
店主

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posted by トムネコゴ at 09:59| 東京 🌁| Comment(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月24日

「もちろんオーケーです」 どこまでも自由なシェイクスピア劇

まずエレクトリック・ベースの音があります。
その響きは不穏で、リズムは危うい。
もし運命と言う名の地下水路があるとしたら、そこでは始終こんな音が鳴っているのかもしれない。
そんな、追い立てられるような響きが、そこにはあります。

その上にドラムとギター、さらに人(天)の声が同時に、瞬間的に、強烈な音を発する。
その音は寝ている者を覚まし、倒れている者を起こす。
その音はあの地下の運命を、地上へと引っ張り上げる。
そして、目覚めた彼らに、その運命を突きつける。
彼らはそれを受け入れ、為すべき事を為すと、再び忘却の中へと戻って行く。
それが繰り返し、繰り返し為される。
強烈な音、目覚め、為す、忘却。
そこに、あの地下水路のベース音は、始終鳴り続けています。

もし彼らに運命を変える力があったなら、そのサイクルから逃れることが出来たかもしれない。
でも彼らには、その力は無い。
彼らには彼らの役割がちゃんとあり、それは『その力を持つ二人』の出現によって明らかになります。
ロミオとジュリエット。

二人は偉大なる恋の力で、それに立ち向かい、それを変えようとする。
忘却の人達は目覚め、一致団結し、その存在は運命そのものとなる。
剣が抜かれ、矢が放たれる。
二人は抗い、傷つき、文字通り血を流す。
そして、二人が死を捕らえた時(自殺)、あの運命のベースラインは消え、天から全ての終わりを告げる声が聴こえてくる。

「祈り!」

ロミオとジュリエットはその運命を変える事が出来なかったのか?
僕はそうは思いません。
二人は自ら命を断つことで、永遠に、その運命を変えることになったと思います。
なぜなら、『自ら命を断つ運命』がこの世界の何処かに存在するなんて、とても信じる事が出来ないから。
少なくとも今の僕には。


先日、劇団地点と空間現代によるあまりにも独創的な『ロミオとジュリエット』を観て来ました。
三浦基(演出)のその演出の自由さ、大胆さ、それに応える役者陣の凄さ。
そのサウンドであの『空間』を満たしていた、空間現代の演奏に心撃たれました。
そして僕も自由にその印象を書いてみたくなり、それを書きました。
僕なりの印象記です。

「肉!肉!!」(天の声)

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*終演後思わず天を仰いだ時の光景です。早稲田の大隈講堂。
『面白ければOKか?』は確か三浦さんの著書のタイトルですが、こんなシェイクスピアを観せられると、「もちろんオーケーです」と僕なら言います。
posted by トムネコゴ at 10:46| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月27日

サッチモ讃歌

ある音楽家が、その楽器を奏でると、魔法をかけた様な奇跡的な時間(空間)が生まれる。
おそらくバッハのオルガン演奏にもそれはあったのだろうし、そのバッハを演奏するカザルスやグールド(特にライブ)にもそれはあると思います。
チャーリー・パーカー、ビル・エヴァンズ、モンク、マイルズ。
それぞれの魔法があり、それぞれの音楽がある。

そして、ルイ・アームストロング(サッチモ)。
彼もそんな魔法が使える、数少ないミュージシャンの一人でした。

ルイがラッパを取り上げ、やや斜め上に構え、白いハンカチを手にしたまま、吹く。
そこから、どこまでも自然で完璧な音楽が生まれる。
それがあまりにも自然で完璧なので、まるで空中にそれらの譜面が浮かんでいて、ルイはただそれをラッパの音に移し替えているだけなんじゃないか。
かつてモーツァルトがやったのと同じように。
そんな気がしてくるほど。
そしてどちらの音楽にも、生の喜びがたっぷりと含まれています。

ルイ(1900〜71’)の生きた時代は、それこそ激動の時代でした。
黒人差別、2度の大戦、ゴールデン・エイジ、大恐慌、ビ・バップ、フリー、サイケ、ベトナム戦争。。。
そのどの様な時代にあっても、彼の魔法はその効力を失うことはなかった。
それは常にそこにあった、と思います。

ルイの音楽を聴いていると、悪いことはどこかよそで起っているか、あるいは悪いことなんてそもそも初めから起っていないんじゃないか、そんな気持ちになることがあります。
それは現実逃避というネガティブな思考ではなくて、言うなれば、美しいものへと僕らの心を向かわせそれを通過させることによって、世界を認識するその中身に変化を起こすこと。
そして、もしその変化が善きものであれば、僕らは今よりもっと高く飛ぶことができるかもしれない。

ビリー・ホリデイは若い頃サッチモに憧れていました。
マイルズとオーネットは、ルイの生誕70年記念レコーディングに駆けつけ、歌まで唄っています。
僕だって、タップの一つも披露したいところですが。(ウソです。全く踊れません)


クリスマスの頃に、久しぶりにサッチモサンタのレコードを取り出して眺め、そうしていると改めてこの人の音楽のことを考えました。
そしてそれを書きました。
僕なりのサッチモ讃歌です。
「Let's do it」

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*この猫はサッチモとは何の関係もありません。
サッチモの事を知っているかどうかもあやしいもんです。
でも、何となくですが、知ってそうですよね。

posted by トムネコゴ at 12:25| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

チェーホフのかもめ、地点のかもめ

今回は直接にはトムネコゴと関係無いかもしれませんが、こんなことはめったにあることではないので、ちょっと書いてみたいと思います。

昨日吉祥寺シアターで、地点の「かもめ」を観劇して来ました。そうチェーホフの戯曲です。
地点とは京都を拠点に活動している劇団で、三浦基(みうら もとい)という方が代表と演出をされているようです。

その地点の「かもめ」。
内容は省きますが登場人物は6人だけで、皆ほとんど出ずっぱり。衣装替えも舞台装置の変化もほとんど無し。台詞と動き、少しの音楽だけで全てを表現していました。そんな劇。

そして観終わった後、僕は放心状態で椅子に腰掛けたまま「これは凄いものをみた」と心で呟きました。

どう凄かったのか?

役者・演出家の力量、他のかもめとの違いなどは僕の手に余るので、あくまで個人的な感想を書きます。

地点の「かもめ」を観て強く思ったことは、「かもめには笑うところは一つもない。」ということ。
可笑しな台詞、コミカルな動き、突発的な奇声、歌、タップダンス等々、笑いを誘う場面はいくらもあります。と言うかそれらで物語が進行すると言ってもいいくらいたっぷりある。
ただこれらは笑いを誘うためにやっているのではなく、感情的に追い詰められた人間の、切実なる裏返しの声であり動きである。
僕にはそう思えてならなかった。
だから可笑しいなことをすればするほど、悲しさがいっそう浮き彫りになり、その可笑しさの裏を見ることになる。
悲哀が充満する劇。
そう言えるかもしれません。

これがチェーホフの「かもめ」の本質なのか?それとも地点の「かもめ」のなせる技なのか?
この問題も僕の手に余るようです。
(世の中には自分の手に余る事柄でそれこそ充満しているのかもしれませんね)

もし興味を持たれた方は、吉祥寺シアターもしくは地点で検索してみて下さい。
来週は桜の園です。
すごく楽しみ。
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*トムネコゴは地点の営業担当ではありません。ただたんに、「ちょっと凄いの見たよ。良かったら行ってみて。」という気持ちから書きました。店主
posted by トムネコゴ at 19:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

菅間一徳さんのこと、その演奏会のこと 続き

続きの前に前回の補足から。
菅間さん自身が給仕をしているのは、何も彼が給仕マニアだからではなく(そんな人いるのかしら?)、ただたんに人手不足と言う理由からです。不必要な説明かもしれませんが。

では本題。
菅間さんの音楽のこと。
彼の演奏を聴いていると、よく何かを思いだしそうな気持ちになります。
それは個別の、何か自分だけの記憶と言うよりは、もっと普遍的な、古くからある遠い記憶のようなもの。(それは僕に言葉が生まれる以前の古い世界を連想させる)
そこには懐かしさがあり、哀しみがあり、安堵感があります。
そんな、普段は猫のように眠り続ける遠い記憶に、彼の音楽は静かに揺さぶりをかけてくる。
そんな感じがします。

もちろんこれらは僕の個人的な印象記であり、一般的な意味での普遍性は限りなくゼロに近くブルー、、、かもしれませんが。(文学的ユーモア)

ある一人の人間が創りだす音楽が、どこかの誰かをこのような気持ちにさせると言うのは、ちょっと凄いことだと思いませんか?
店主

*興味のある方は菅間一徳で検索してみて下さい。

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posted by トムネコゴ at 12:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

菅間一徳さんのこと、その演奏会のこと

菅間さんの演奏会が、去る10月で10回を数えました。
だいたい15人程度の季節毎の小さな演奏会。
春が過ぎて夏となり、秋が来て冬を待つ。
もちろん菅間さんとは関係なく季節は巡るけど、それでも僕はふと「季節というのは、実は菅間さんが連れて来るのかもしれないな。」と思うことがあります。
この人にはそう思わせる、何か自然の風を身に纏って生きているようなころがある。
そしてその風と共に移動し、行く先々で花を咲かせ、木々を朽ちらせる。
大袈裟に聴こえるかもしれませんが、少なくとも僕にとってはそう感じさせる、不思議な魅力のある人です。

菅間さんの音楽は言葉で説明するのがとても難しく、所謂ジャンルに置き換えることが出来ません。
それは菅間一徳という人間性と、妙に合っている気がします。
風にジャンルが無いように、菅間さんにもジャンルは無い。
風は風。菅間はす、す、菅間。(よく吃る人です)

じゃあどうやって、菅間さんの音楽を聴いたことの無い人や、この演奏会に来たことの無い人にその魅力を伝えればいいのか。
その解答になるかどうかは分りませんが、演奏会の様子と僕なりの感想を書いてみます。

菅間さんの演奏会では、毎回菅間さん自身が給仕をします。
オーダーを取り会計をして、席に着かせ、珈琲を運ぶ。
次々と来店する予約した御客達を、不慣れな手つきで一人一人さばいていきます。
(余談ですが、菅間さんは接客バイトの経験が全く無く、端で見てても大変そう。)
そして、それが演奏直前まで続きます。
そのようにして、演奏会は始まります。

1曲目、給仕から音楽家へ。
それを確かなものにする為に、即興を交えながら少し長めの演奏。
声にならない声、言葉にならない言葉を時折発しながら、あくまでも自然に、ある流れに沿うかの様にギターを爪弾いていきます。
そのようにして、ゆっくりと、音楽が創られていく。
僕らはそれを目の当たりにすることが出来る。
そして気がつくと、自分達が日常を離れた特別な場所にいるんだと感じることになります。
それはもしかしたらあの風が関係しているのかもしれない。そう思わなくもない。
「花は咲き、木々は朽ちる。」


ここまで書いてきてさすがに疲れたので(遅筆。5時間半!)、続きはまた今度書きます。
店主
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posted by トムネコゴ at 21:21| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする