目が覚め、洗面所で顔を洗い、台所に来て時計を見るとこの時間でした。
しかたが無いのでお湯を沸かし、ハーブティーを淹れ、それを飲みながらこの文章を書いています。
猫も家人も寝静まり、辺りは“しん”として、ストーブと時計の“針の音”がやけに大きく聞こえる、そんな時刻。
かつてスコット・フィッツジェラルドが「魂の漆黒の闇の中では、時刻はいつも午前三時だ」と呼んだ、そんな、濃密な時刻。
こんな時には、やはりジャズが聴きたくなる。
それも夜のように深い、漆黒のジャズ。
例えばビリー・ホリデイのような。
ビリー・ホリデイの音楽が「他の誰とも違う響き方をする」ことに気がついたのは、30歳を幾つか過ぎた頃だったと思います。
結婚して店を始め(猫を飼い)、生活がガラリと変わった、ちょうどそんな頃です。
そのころ僕達(僕と妻と猫)は鎌倉にいて、全く知り合いのいない他所の土地で、一から自分達の店を作ることに日々励んでいました。
そこには“喜び”や“遣り甲斐”、そしてもちろん“不安”や“落胆”もありましたが、僕が強く憶えている感情は、「孤立感」です。
「この世界から切り離されて、自分(達)だけで生きている」と感じること。
それは僕に、夏目漱石の『門』に出てくるある若い夫婦を思い出させました。
小さく強固な、二人だけの完結した世界。
そこには何者も入ってこないし、何者も出ていかない。
あの鎌倉という土地がそう感じさせたのか、それとも僕達が「他所者」だからそう感じたのか、はっきりとは分かりません。(あるいは両方かも)
その時期、僕はよく「間違った場所で、正しい事をしている」と感じていました。
そしてその頃から、ビリー・ホリデイの音楽が「特別な意味」を持ち始めたと思います。
それはあの「孤立感」と何か関係があるのだろうか?
ビリーが白いロングドレスを着て(左の耳には白いクチナシの花)、一人マイクに向かう(そこにだけ小さくライトが当たっている)。
両腕を中に漂わせ、心持ち首を傾げなら、歌う。
聴衆は固唾をのみ、バックのミュージシャンですら耳を澄ませているのが分かる。
彼らの演奏は彼女を優しく励まし、彼女はそのリズムに乗って(超えて)、どこまでも高く飛翔する。
メロディは創り替えられ、歌詞は新たな意味を与えられる。
そして、その音楽は、全く別の次元のものになってしまう。
その音楽は、文字通り僕の動きを止め、しばし放心状態にします。
その音楽は、魂の深いところに揺さぶりをかけ、自分が何処かに“繋がっている”ことを気づかせます。
そこは孤立感とは無縁の場所。
そこは深い哀しみと嬉びが奇妙に同居する場所。
そこは、ビリー・ホリデイの居る場所。
今考えてみると、あの頃感じていた「孤立感」は、結果的にビリー・ホリデイの音楽を理解する“手助け”をしたのかもしれません。
彼女が抱える圧倒的な「孤独」と「哀しみ」にこちらの抱える"それ"が正面からぶつかり、その結果、そこにある「理解」が生まれた…。
もちろんこれは仮説にしかすぎませんが、もしそうだとしたら、「孤立するのも悪くない」、と声を大にして言いたい。
ほんとうにそう思う。
※タイトルの「Open Letter to Billie Holiday 」はミンガス作曲「Open Letter to Duke」のモジリです。Dukeとはもちろん、Duke Ellington のことですね。僕はこの曲が入っている『MINGUS AH UM』というアルバムがとても好きで、特に「何かを叫びたくなる」とこのレコードをかけ、聴きながらミンガスと一緒に叫んでいます。もしそういう方がいたら、是非一度聴いてみてください。きっと叫ばずにはいられないから。「オーイェー!」