それはある種の人達が、野球選手や音楽家になりたいと思うことと、根本の部分では一緒かもしれません。
ただし大きく違うのは、それの行き着く先が、当時も今も解らないと言う事です。
考えてみると、それまでの僕は一方的に喋り、冗談ばかり言って、適当に人と付き合う。
自分とも他人とも真剣に向き合うという事をしない。
と言うよりも、真剣に向き合うという事がどういう事かが解らない。
そんな人間だったように思います
そして、そんな自分に嫌気がさし、ある種の危機感をそこに感じていました。
「これまでと同じ生き方をしてたら、僕はおそらく、どこにも辿り着くことが出来ない」と。
それから僕が意識的に始めたのは、
自分の話を出来るだけおさえて、その分相手の話を集中して聞く。
分らないことはいちいち質問し、その内容をちゃんと理解するように努める。
話の流れに注意して、うなずき、相槌を打つ。
どれも単純なことばかりですが、それらを繰り返すことで、「人の話が聞ける人間」にちょっとずつ近づいて行けた気がします。
そして気がつくと、あの危機感を感じなくなっていました。
じゃあ僕は、どこかに辿り着くことが出来たのか?
分りません。
今思うことは、あの頃の自分には「どこかに辿り着くこと」が重要だったのではなく、あの「どこにも辿り着けない」状況から抜け出すことが切実であり、重要だったのではないか。
そんな気がします。
そしてさらに思うことは、あそこから抜け出すことが出来て本当に良かった。
人の話を真剣に聞くことは、クラシックやジャズを真剣に聴くことと、どこか似た行為の様な気がします。
スピーカーに向かって質問することは無理ですが、それらは集中して聴(聞)く程に、そこから得られる情報量はその広がりと深みを増し、思いもよらない地点に僕らを運ぶことがあります。
もちろんいつもそう上手くいく訳ではないですが(人生のように)、僕が今思うのは、音楽を聴くように人の話を聴きたい、ということ。
そして、それが上手くいった後に、自分がどの地点に立っているのか。
それも聴く楽しみの一つであります。
店主拝
*あの頃、特に真剣に聴いていたのはこの二人。もちろん今でも聴いています。
どうですか、音楽(サウンド)が聴こえてきませんか?