僕がまだ独り者で、フリーターで、三鷹の風呂無しアパート(38000円ナリ)に住んでいた頃、田舎の沖縄から母親が訪ねて来たことが一度だけありました。
確か当時大阪の大学に通っていた弟を訪ねるついでに、東京の郊外のぼろアパートまで足を伸ばすと言う事だったと記憶しています。
沖縄から大阪に行く“ついで”が東京と言うのは、今考えてみても、なかなかスケールが大きいなぁと素直に感心してしまいます。
当たり前ですが、図書館に行くついでにスーパーに寄るのとはわけが違います。
そしてまた当たり前ですが、その動機も違います。
母は夏の暑い日に一人で三鷹までやって来ました。
確か僕の部屋に二泊して帰ったと思います。
その間、僕はバイトを休みにするでもなく、特別何処かへ連れて行くでもなく、ただ自分の日常のペースのままに、その二日間を過ごしました。
良く言えば優先順位がはっきりしている。
悪く言えば親不孝者。
この場合は、もちろん、後者です。
そんなある日、バイトから帰ると、買い物帰りの母とアパートの前でばったり会いました。
確かその日は早番で、その時はお昼時で、母は空っぽの冷蔵庫をうめる食材が入ったビニール袋をその両手に下げ、不思議な笑みを浮かべて、そこに立っていました。
薄いビニール袋に中のスイカが透けて見えます。
「美味しそうだったから買ったさ。食べるね」
粗末な台所で母が作った昼食を二人で食べ、それからスイカを割って食べました。
部屋にはエアコンもなく、窓は全開にして、扇風機の羽根がくるくると回っています。
「暑いね」
「うん」
不思議と音の無い、静かな午後だったように思います。
その後に、どう言うわけか、一緒に小津安二郎の『東京物語』を観ました。
おそらく何もする事がなく、手持ち無沙汰で、「何かDVDでも観ようか」となったのだと思います。
一脚しかない椅子に母を座らせ、僕はその隣に畳に直に座り、日も射さない薄暗い部屋の中、小ちゃなテレビの画面を二人して見つめました。
時折り母が訊く「この人誰だったかね」(「山村聡だよ」「三宅邦子」)以外は無言です。
音の無い静かな午後に、モノクロの映像が淡々と流れて行きます。
「あーラクチンだ、あーノンキだね」(『東京物語』より)
やがてエンドロールとなり、夕暮れとなり、母の作った夕飯を二人で食べ、寝ました。
母はその次の日に帰ったと思います。
僕は見送りにも行かなかったはずです。
その当時、僕は小津にハマっていて、その映画も何度も観ていました。
そしてもちろんその内容も知っていたはずです。
にも関わらず、どうして『東京物語』何かを選んだのだろう?
よりにもよって、“田舎から上京した両親を邪険に扱う子供達の映画”なんかを?
同じ小津なら『おはよう』や『父ありき』のような、その時に相応しい映画が他にまだまだあったはずです。
でもなぜか僕はそうしなかった。
いかにも“親の心子知らず”的な映画を選んでしまった。
自分がそれに近しい事をしているとは気づかずに。
「いやぁ、とうとう宿無しになってしもたわい…はは」(同)
その二日間に僕が母に対してしてた事が正にその映画の通りだと気づいたのは、もっとずっと後、何年も何年も経ってからのことです。
「若いうちはしょうがない」「出来る時に孝行すればいいんだ」と言う理屈は立ちますが、「それでもそんな映画を観せるべきではなかった」と言う悔い(のようなもの)を、今は感じます。
いったい母はどの様な気持ちであの映画を観ていたのだろうか。
そしてどの様な思いを胸に、一人羽田へと向かったのだろうか。
あれから15年以上が経ち、僕はそれなりに歳を重ねて来ました。
結婚をして猫を飼い、店を始めました。
今のアパートには風呂もエアコンも完備され、天気の良い日は眩しい位の陽が射します。
僕はあの頃と比べて少しはマシな人間になっているだろうか。
あの映画と近しいようなことを今だにしてやしないだろうか。
僕はあの夏の日の『東京物語』を忘れることが出来ない。
それはある限られた時間のなかで起こった、僕と母との物語でもあったのだから。
「“去ればとて、墓に布団も着せられず”や」(同)
前置きが長くなりましたが、この11月に母(今回は父も)が久方ぶりに上京します。
小津の口癖を借りれば、「ババア何しに来やがる」です。
なので、以下の通りに営業時間の変更をしたいと思います。
ご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願い致します。
店主
11月5日(月)18時迄
(6日の火曜は定休日)
7日(水)と8日(木)休業
14日の第2水曜は営業します。
posted by トムネコゴ at 18:06| 東京 ☁|
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